私の絵についてひとくさり  佐々木曜

 私の絵はそんなに難しい絵ではないし、どちらかと言えば非常に素直に 描いている部類でしょう。ある意味特徴が無いとも言えるかもしれません。

ところが、それこそ生まれたときからずっと一緒で私をよく知っているHikariさんは 別の見方をしています。私はそれを聞いて、そうなんだよ、全くそのとおりなんだよ。 私が描きたい絵はそれ!。うれしいねー。それだよ!と大喜び。

私には どんな言葉で表現して良いか分からなかったけれど、彼はうまいこと言い当てて くれた。 H君にこの際、佐々木曜の絵についてひとくさり語ってよと言ったら、 ああいいよと気楽な返事。
というわけでここに載せさせて頂きます。

H君の手記より  

 佐々木曜の絵は、風景から入って10年、人物10年、形が崩れて10年、 整って10年、素直になって10年 。

題材も途中からは静物含めなんでもあり。それでいて本人はそんなに違うものを描いているという自覚が無いと来ている。一貫して同じテーマで描いていると思っているのだ。

初めのうちは絵が下手くそで何も伝わって来なかったが、じぃーと見ていると 何かが見えてくる手法は今でも変わらない。

ドキッとするような見せ場は作ら ないし、パフォーマンスなど無縁な人だから、見ていてイライラする。 挙句の果て描こうとしているものが人が見向きもしない世界だから尚更だ。

 小説だって人間のエゴや、苦しみなど生身の人間を、そして皆が知っている 身近なテーマであれば共感を得やすいが、能のように存在を昇華させて、深く 深く潜りこんでゆく世界では実感を得にくい分共感も得にくい。

佐々木曜の絵はまさにそれ。多くの人の絵とは逆に、嬉しい悲しいという直な 感情を抑制し、排除しようとしているのだから。能の世界と一緒だ。

いわば世阿弥が見ていたあの浄化、昇華の世界である。そこにはもはや人間の 生身は無くて、精神のみがある。

佐々木曜の言う生臭いものはいらないという のはこれだろう。

 どだい嬉しいも悲しいも、恨みも言ってみれば泥や石粒のようなもの。 目に入れば痛いし、服に着けば気分は良くない。中には光るものもあるけれど 一喜一憂して喜んで絵画にするほどのものではないと彼は思っている。

逆にそれらは体にくっついて、大切なものをいつしか見えなくしてしまう。  

 近代では、文学も絵画も敢えて水と泥をかき混ぜてどろどろにし、カオスと言って 珍重したり、楽しんだり、苦しんだり、描いたりするのが主流のようだ。  

 ところが佐々木曜は泥水を掬ってきては、泥粒というなまの感情をゆっくり 時間をかけてしかるべき所へ落ち着かせる。
そう、樽の底だ。すると、水は透 き通る。泥が沈めば沈むほど水も泥も冴えてくる。その両方が見えることが 大事なことなのだと。

 題材が変ること、それは沈ませるものが、ときに水であったり、月の光であったり、バケツで あったり桶だったりするだけだのことだ。
 
佐々木曜の毎日はそんなことをしているのかも知れない。

感情をぶつけるのでなく、抑制するには日本画の絵具はこれほどにないほど 向いている。


 あのドイツの有名な音楽家ヨハン・セバスチャン・バッハ。あのバッハも 個人の感情ではなく、あくまでもそこに神がおられるであろう状況を音楽で 現そうとしているのだそうだ。

佐々木曜も以前こんなことを言っていた。

 神社の鳥居をくぐると、体が   透明になる気がする。また謙虚になれる。 桜を前にした時も同じだと。  「そこに神様を感じるからなのかなー。」

「神様を描こうなんて大それたことは絶対思わないけれど、神様が居られ そうな感じ、そんな雰囲気を感じる絵にしたいのよ。」

 「絵の前に立った時、神様がいそうな思いを感じてもらえる絵が描けたら最高だ。 それが僕の一生のテーマなかな。」と。