現在 保科美術館展示中 作品14点です。
1
春来る
(はるきたる)
風景画の何たるかもよく分からな い若いころ、伊香保の少し先の湯 檜曽で写生しました。
東京に戻り、樹の形など工夫して みましたが平凡な風景で面白くあ りません。困り果て師匠に見てい ただきました。
先生は「三角の雪山が魅力だった んだろう、それだったら雪の白が 生きるように空の色を工夫したほ うが良いね」と。
そう言われて空を描きなおしてみ たのです。透き通った空のように 描きました。でもやっぱり平凡。
また師匠の元に。そこで、「この絵 具使ってごらん」 と渡されたのが、 空とも思えない濃い色。それも今ま で使ったこともない高価な天然絵具。
えーと思いながら描いてみてびっくり あれまあ白が生き生き。そして絵に なっている。
実際の色のまま描くのが良いわけでは ないことを、まざまざと知った瞬間 です。また天然絵具の魅力を実感した 瞬間でもありました。
師匠の思い出と、表現の何かを教えて もらった想いの深い作品です。
2
薔薇
(ばら)
私は始め風景画家を目指していたので、一生ずっと風景を描くんだろうなと思っていました。
ところがある事情で写生においそれと出かけられなくなり、身の回りの物を描くようになります。
そしてその面白さに気付き、人物画が主になり、それが10年。
同時に花なども加わり、いつの間にかありとあらゆるものを描くようになりました。
描きやすいもの、描きにくいもの、それぞれあります。 絵にしやすいのは人物。難しいのは薔薇なんです。
だってきれいすぎるでしょ。
でも、描きたい。また失敗する。それの繰り返し。
油絵のように、筆をぐりぐり動かして描きたい。
そう思うことが多々あります。
日本画ではそれができないから。 そう考えるのは私だけではないのかも。
日本画で薔薇の絵は少ないですものね。
一方牡丹は日本画向きですね。バラを描いていて、へたをすると牡丹になっちゃうと思うことありますもの。
それって、ただのヘタなだけよね。
3
野に咲く
(のにさく)
画室を出たところには、いつだか草を刈ったのに、もう夏草が生い茂って、とても手に負えなくて今はほってある。
でも秋になるとそこがいつの間にか秋草に代わっている。
方丈記ではないが、「知らず知らずのうちにすべてのものは移り変わり、そして皆消えてゆく」、ほんとうにそのことを目の当たりにしてしまう。
夏草の濃い影も消え、秋のそれは、葉と葉の間に光が通る、風も通る、その風は色なき色に思える。
昔の人は良く言ったもの、秋は白色、白秋といいますから。
白い色。
少しのはかなさと、芯の強さも併せ持つ。
私の好きな色。
4
松風
(まつかぜ)
これもそうですが、私の描く人物は愛想がないでしょう。嬉しいんだか哀しいんだか。
そして何をしているかも分りません。取りつく島もありませんよね。
そうなんです、私は嬉しい悲しいという表面的な感情を排除しているのです。
皆さん学校では、絵には嬉しかった悲しかったという感動を描きなさいと教えられてきたはず。
それとはまったく真逆です。
仏像を思い出してください。どれひとつとして嬉しい悲しいの感情を現していませんよね。
嬉しい悲しいという、その場限りで、表面的な感情ではなく、その奥にある精神の塊のような姿を現そうとしているからです。
それは品格や崇高さにも繋がっています。
私が考える絵画というのは、それとまったく同じなんです。
私は人間の表面的な、嬉しい悲しいその日のことではなく、人が存在することのすばらしさ、そこに居ることの大切さを 絵にしたいのです。
その喜びを絵にしたいのです。
それは人間としての崇高さを認めることにもつながります。
あたかも精神だけが立っていたり、座っていたりするようなそんな絵を描きたいのです。
5
宇
(う)
私たちの周りでは、皆さんが宇宙についていろいろ考えて下さっています。
果てがあるとか、いつかはまた縮むとか、いやいや果てしなく膨らむとか。
でも、間違いなく皆さん宇宙が一番大いと思ってらっしゃる。
でもね。 ほら、宇宙を軽々と持たれている方がおられますよ。
もっともっと大きな世界があるみたですよ。
6
花鬘
(はなかずら)
「薔薇」「野に咲く」「松風」「宇」それぞれ時は違いますが個展に出した作品です。
あるとき、これから10年の間、毎年個展を開くぞと決心し、公言しました。そうしないと途中で止めそうだったから。
日本画では描くのに時間がかかることもあって、何年かに1回ぐらいの割合で個展をするのが普通でした。
毎年となると年がら年中頭の中は次の作品への足がかリになるものを求めて、感覚をそばだてていなければならず、それは結構たいへんなんです。
ですが毎日毎日が、生き生きする思いでした。
毎回テーマを変えて取り組み、そんなことをするうちに、佐々木曜というカラーが自ずと出てきます。
そのカラーは有難いことですが、それを壊すのも作家の仕事。
見に来てくださった方の予想や期待を裏切ることも大切、そう心得て過ごしております。
7
紅白牡丹
(こうはくぼたん)
保科美術館の館長から、屏風があるので
何か描いてみないかと言われて、
描きます描きますと二つ返事。
置かれる場所も分かっている絵を描くのは楽しい。
ここは難しいこと言わずに華やかなものを描きたいと、赤と白の花が目に浮かびます。
薔薇にしようか、牡丹にしようか、それとも
ツバキにしようか。
やはりここは牡丹でしょ。
8
花
(はな)
今住むところに30年前に引っ越して来ました。
春になったら、家の前が一面 花,花、花。なんと桜の林でした。
窓から見える桜は昼間はもちろん、夕暮れの淡い光の中や、月の光を受けているもの、雨の中も、それぞれ表情を見せてくれました。
びっくりしたのは、闇夜の中の花です。暗くてぼやぁぁとして、形など全く分からないのに桜なのです。
桜の美しさを見せているのです。
こんな桜があるのかと目を開かせてくれました。
それまで見ていた桜は、いわばよそ行きの姿だったのです。
それだけではありません。
何より良くないのは、桜はこういうものと決めつけ、その固定概念に合う桜を探して歩いていたのです。
上野が良いと言われれば上野に、あっちが良いと言えばあっちに。
だから誰かが何処かで見た桜ばかりを追っていたのです。
自分の目を通していなかったわけですね。
家の前の桜で、いろいろな美しさ,、例えば、あわい美しさ、消え入るような美しさ、光っているような美しさ、ぴちぴちはちきれんばかりの美しさ、
いわば、桜の花の素の姿を知ることができた気がします。
それからは他所で見る桜も、奥深く見ることができるようになりました。
この絵もその一つです。
9
桜
(さくら)
桜の花を写生するとき、私はたいていボールペンで描きます。
描いているとき気が付いたこと。桜の徽章みたいな花弁は描きません。どんな形で描いているかですが、まるでもないのです。
知らないうちに桜は四角形に描いていました。
もちろん四角形だけでなくいろいろな形ですが、でも四角形が多いのです。
そのように描くと花が生き生きしてるように思えます。
梅の写生を見てみたら、まるのようですね。それぞれあるんだなと。
へんな内輪話でごめんなさい。
10
(ふたつのはし)
若いころスケッチ旅行に行ったとき、僕らはどこか良い所がないかと画板を抱えてあちこちうろうろ。
そんな、おあつらえのところが在るはずもなく、時間ばかりが過ぎます。と師匠を見るともう描いている。
どこを描いているのかと見に行くと山の風景を一枚描き終わっている。そして2枚目を描き始めようとしている。
何がびっくりかというと、一枚目を描いたその場所で、90度向きを変えただけで今度は池が入った風景を描くらしい。そして「ここはどこでも絵になるねー」だって。
そして「どんな所でも絵になる物は何かあるよ、じっくり見ることだよ」と教えられた。
それはなかなか出来るものじゃないというのも実感。
それから何十年、南アルプスの登山口にある一軒だけの温泉宿に遊びに行ったとき、雨に降られて仕方なく玄関のひさしの下でスケッチを始めた。
絵になりそうもないと思ったけど、描いているうちに これ絵になりそう!。
師匠の言っていたこと、思い出しましたねー。
この絵は、福田総理の時、首相官邸を飾っていました。
わからないものですね。雨のおかげですね。
11
野
(の)
青い空にぽっかり浮かぶ雲もいいけれど、そういう雲は高い所にあって、よその人のもののようで、遠い存在。
それに比べると草原の続きで、同じような緑色の空に浮かぶ雲は、手が届く感じがして好きだ。
絵というのは変な立体感、距離感をつけずに、平面に描くのがいいと思っている。
間とか空間というものはそういうところに生まれて、絵を見る方に自由に想像を働かせてもらえる場となるから。
この緑の空間に、皆さんの過ごしてこられた記憶を重ねていただけたらうれしい。
12
静夜
(せいや)
闇夜を表現するとき、暗いので黒色を使えば皆さん納得ですよね。
それはある時期の西洋文化の主流でした。
しかし日本では、ずっと昔平安時代から、夜を明るく描くことが多かったのです。
来迎図など、仏様の慈悲が周りを照らすように、柔らかい光がどこからともなく照らしている明るさです。
その柔らかい明るさが夜を暗示しているのです。
近代では色をもってする場合もあります。多くは青い空間にしたりして。
この絵では、牧場の馬小屋で、昼間見たあのお馬さんたちが、静かで穏やかな時間を過ごしているのだと思うと、深い赤色が暖かい夜を暗示してくれると思ったのです。
冷たい夜にしたくはないから。
色というのは自由に使ってよいのです。
絵を描く上での、楽しみを 与えてくれる一つです。
13
緑野
(りょくや)
北海道の馬を育てている牧場にお邪魔し、夏の3週間近く泊まり込んで過ごした日。
馬にとっては、牧場のスタッフのほか人間を見たこともない所に、突然現れた私を受け入れてくれるわけもなく、数日は100メートル離れていても、横の姿を見せてくれない。
草をはみながらすーと向こうを向いてしまう。
一頭だけではない、全部がである。またそれが新鮮でもある。
街中に近い牧場では人に慣れていてスケッチをしていると柵越しに画板をかんだり、ひっぱったりする馬もいる。
ま、それはそれでかわいいものだけど。
警戒心との対峙はそれこそ真剣勝負で、草をはむ馬のいる景色そのものまで新鮮に映る。
汚れ一つない山の色、草の色、なだらかな丘のやさしさ。
この広い空間にゆったり流れる時間は、すべてのものを受け入れ、そして 全てをきらびやかにさせる。
私の絵も一段と色が鮮やかになった気がする。
14
回帰線
(かいきせん)
日記に11月1日ジョウビタキ帰ってくる。3月20日ジョウビタキ最後に見た日と。
ツバメも赤とんぼも、その時期になるとやってきて、また帰る。
地図があるわけでもないのに、暦があるわけでもないのに。その不思議に尊敬してしまう。
自然界はすごい。
月だって、星だって太陽だって行ったり来たりしている。
旅をしている。
動いていることの上に私たちはある。
心が揺れるのも当然なのかもしれない。
そして、いつかは元のところへまた帰ってくる。
そんなすべてを判って見ている人が、どこかに居る気がする。
どこかで見守ってくれている気がする。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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